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光秀公の新文書

明智光秀公についての新文書のニュースです。崩壊間近の室町幕府を支えた、当代最高レベルの知識人、文化人、政治家、そして武人であったことがうかがえます。

きわめて著名な武将ながら、生い立ちや最期について謎が多い光秀公について、このタイミングでこうしたことが明かされていくのは凄いとしか言いようがありません。

次々と秘密が明かされていく今日この頃ですから、週末のワールドメイトの関東定例セミナーが楽しみでなりません。


■信長に仕える前の光秀、近江で活動…文書発見

2018年08月03日 17時34分

戦国武将、明智光秀が織田信長に仕える永禄11年(1568年)以前に、近江・湖西地方(滋賀県)で活動していたことを示す文書が見つかった。光秀の動静を示す確実な史料としては最古のもので、当時から足利将軍家との結びつきがあったことをうかがわせる内容だ。

 文書は旧熊本藩主細川家の家老だった米田家に伝来し、稲葉継陽つぐはる・熊本大永青文庫研究センター教授が解読した。けがなどの症状に応じた薬の調合を記した医薬書で、永禄9年(1566年)10月の奥書に、「本書は、明智十兵衛尉(光秀)が近江国高嶋郡の田中城(滋賀県高島市)に籠城したときの口伝」で、「沼田勘解由左衛門が相伝したもの」を、米田貞能が近江坂本(大津市)で写したとある。

 米田も沼田も、当時は足利将軍家の家臣で、「相伝」という記述から、永禄年間の早い時期から光秀が近江を基盤とし、将軍家とつながっていたことがわかるという。信長仕官以前の光秀は、美濃国(岐阜県)に生まれ、父の戦死で流浪後、越前(福井県)の朝倉義景に仕えたとされるが出典は後世の記録。確かな史料では、足利義昭が越前に亡命していた永禄10年ごろの家臣団名簿に見える「明智」が最古とされてきた。

 稲葉教授は、「若き光秀の基盤が湖西地方だったことで、義昭や越前とのつながりや、信長のもとで近江坂本城主となったことも理解できる。医術に通じていたことも示す興味深い史料だ」と話している。4日から、熊本県立美術館(熊本市)で開かれる「細川ガラシャ」展で公開される。

2018年08月03日 17時34分 Copyright © The Yomiuri Shimbun